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2006年 12月 24日
生まれてひと月の家族写真
みどり子を抱え 私の笑顔が揺れている 母の顔は彫られ始めたばかり 私の手に生まれた のみの刃は まだ丸い 一日一日時を経るごとに 研がれる刃 肌で感じるぬくもりが 分かち合う喜びが そして時には思いの伝わらない哀しみが 顔を彫ってゆく 何年たっても完成することはない それでも毎日彫り続ける 「母」という作品 #
by lesparoles
| 2006-12-24 11:33
| 詩
2006年 12月 08日
お久しぶりです。先月、無事出産を終えました。しばらくの間、更新できていませんでしたが、それでも遊びに来ていただき本当に感謝しています。ありがとうございました。また環境は変わりましたが、これからも日々感じたことや詩を少しずつ書いていきたいと思っています。よろしくお願いします。 さて今日は、先日近所の大切な友人が体調を崩したときに、友人の家族の夕飯の足しになればと肉じゃがを作りながら思い出していたことを書きます。 約20年前のことにもなってしまいますが、私の父が病気で長期入院していたときのことです。母は毎日病院通いしていて、帰宅するのはいつも夜でした。まだ中学生だった私は夕飯のおかずもろくに作れません。ちょうど近所に伯母が住んでいました。伯母はうちの事情を察知してか、中学生の子供が好きそうな夕飯をつくって、毎日届けに来てくれました。そのときは「わぁ、助かるな。ありがとうございます。」という程度にしか思っていなかったのですが、先日肉じゃがをつくりながら、その時伯母が作ってくれたコロッケの味をありありと思い出したのです。とってもほくほくしていて愛情がつまっていました。あの時伯母は、一人でご飯を食べることになる私に本当に愛情をこめて作ってくれていたのだということが今になってわかったのです。それを感じて伯母に対する深い感謝の心が生まれました。そうして思いました。愛情というのは確実に刻まれていくのだということを。当時の伯母にとっては愛情を与えるだけで、私からは何の見返りもなかったはずです。でも、伯母のやったことは確実に相手の心に刻まれていて、与えられた人は知らぬ間に与える人になっていく。そうやって伯母の心はずっと生きていくんですね。伯母はもう亡くなりましたが、未だに私の心の中では生きています。 人はいつか消えていくものだから、何か自分が生きた証を残したいと思うことが多いのかもしれませんが、目には見えないものでも愛情というものを人に与えることによって与える人の心は命の循環を繰り返す中でも生き続けていくのかもしれませんね。 #
by lesparoles
| 2006-12-08 09:29
| メッセージ
2006年 11月 12日
ゆり
私の花瓶に咲いたゆり 真白く大きく目を開いたゆり 私の部屋はあなたの色で染められて 私はあなたの香りの中で 夢をみる 寄せる波がひいていくように あなたもいつかは消えてしまうもの 私と同じように 証は残せない あなたの香りを身に纏いましょう 今日も夢から夢へと 歩いてゆく painted by NAOKO Tanaka #
by lesparoles
| 2006-11-12 20:41
| 詩
2006年 11月 05日
「待合室」という映画を観ました。これは実在の女性を主人公にしたものです。
舞台は岩手にある小さな駅の待合室。そこに置かれた「命のノート」には生きるのに疲れた旅人達からの赤裸々な思いが綴られ、駅の前に店を構える一人の女性がその一つ一つに温かい言葉で励ましてゆくという内容のものでした。派手な展開はなく、「命のノート」を軸に一人の女性と心を傷めた人たちとの交流が淡々と描かれているのですが、久しぶりに心の奥底から揺さぶられ、感動し、涙した映画でした。「生きていれば、いつかいいことがある」、そう信じて主人公も日々を生きています。何もない町で、家族にも先立たれ、一人で。そういう彼女の旅人をみる眼差しはとても温かく、そこに傷ついた人は光を見出すのかも知れません。 主人公を演じた富司純子さんも実際にその女性に会ったそうなのですが「明日生きるのも嫌な人も、温かい気持ちにさせる」方だったのだそうです。 生きるとはシンプルなこと。それなのにいつの間にかたくさんの洋服で身動きとれないくらいに重ね着してしまって、自分を苦しめていたのかもしれないと気づかされた感じがします。着込んでいた洋服を一つ一つ剥いでゆくと、最後に残るものは愛だけなのかもしれません。 仙台ではアンコール上映が仙台セントラル劇場で11月4日から12月1日まであります。興味のある方はどうぞ!心に残るいい映画だと思います。 #
by lesparoles
| 2006-11-05 00:14
| 出会い
2006年 10月 29日
目に留まった草花を見て気づいたことがあります。草花は太陽の方向へ伸びようとし、風や雨にさらされるときはさらされるがままになっています。また種、芽吹き、つぼみ、花と段階がありますが、それぞれの段階を経ているとき自分の持っている力以上のものを出そうとせず(例えば芽吹きの段階のときは無理に花になろうとせず)、その時々の自分の持っている力を十分発揮するだけなんですよね。
これを人に置き換えてみたのです。人もいろんな個性、そして状況があるけれど、与えられた状況の中で目の前にある仕事をこなし、そのときを精一杯生きていると、また次に道が示されていき、最終的にはいつの間にかその人の花を咲かせるのかもしれない。植物の成長を導くものが太陽だとしたら、人の成長を導くものは太陽のような存在、つまり目には見えないけれど何か大きな力で、人も無意識のうちにその方向へ伸びようとしているのかもと思ったのです。 私は時々仏様と対峙するのですが、先日対峙していたときふっと湧き上がってきた言葉がありました。今、育児に専念している状況の私なのですが、仏様に「いつか自分の適性にあった仕事ができますように」とお祈りしていた時、こういう言葉が出てきたのです。「お前には今、仕事を与えているではないか。まずそれをやることがお前の役割だ。それをやることで道が見えてくる」と。 人の一生が自分の原石を磨くためにあるとするばらば、そのための仕事は全てが金銭の対価になるようなものではないのですよね。お金にはならないものでも、与えられた仕事、いつの間にかやることになっている仕事をこなすことにより自分を磨くのに必要で学べるものがこの世の中にはたくさんあるのです。 その気づきが起ったとき、現実の私の状況を見てみました。見渡してみると自分に与えられている仕事はたくさんあります。そしてその仕事をすることにより確かに自分に必要な学びを得られていたのでした。それをしっかりこなすことで自分が磨かれるんですよね。 草花の一生と自分の一生。状況に応じて、そして個性に応じてその時々を精一杯生き、光に導かれながらそして光を目指して生を全うするという点ではとても似ていると思いました。 #
by lesparoles
| 2006-10-29 02:53
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